2014年9月15日

 大学生活最後の夏休みも、結局何者でも無いまま終わった。長期休暇という気分では全然無くて、まあいつもそうなんだけど、最初からこれ(アルバイトに行くか友人と会うか)以外の過ごし方なんて無かったのだ、という錯覚を覚えるほどだった。あるいは日曜日を何度も反復しているような気分。とにかくいつにも増して現在以外の時間に対する意識が取り払われた不思議な二ヶ月間だった。
 この間「けものがれ、俺らの猿と」の映画を観てから本を読んだ。映画は何度も主人公が目覚めるように夢みたいな脈絡の無さがあったんだけど、小説のほうはちゃんと繋がっているのに気づいたらまったく違う場所に連れて行かれていって迷子になったようだった。DVDになっている映画を観たあとにアマゾンのカスタマーレビューを閲覧するという人は多いと思うがわたしもそうで、かるーく流し読みしていたら「不条理」という文字が散見された。この小説は結果として不条理になっているだけで、現実の過剰な状態とか過剰にデフォルメされた現実を描いているんじゃないかなと思った。より端的に言えば「実録・外道の条件」の絵本ヴァージョン。それにしても「婆の駒」という言葉はかなり良い。久しぶりに良い言葉に出会って嬉しい。アルバイト中チケットを売っているとき、喫茶店でパフェを食べているとき、赤提灯で冷奴を肴に日本酒を飲んでいるとき、心にふと「婆の駒」という言葉が浮かび思わず口ずさんでしまう。
 とりあえず町田康の本は犬のエッセイとか以外読んだので、バネの反動みたいな感じでグッと、社会に参加しまくりたい。

2014年8月25日

 鞄のポケットから去年書いた文章の載った紙切れが出てきた。


 6月17日は17時から酒を飲んでいた。東京は梅雨入りしたばかりで、湿気が不慣れな手つきで渋谷の街を撫でていた。金が無かった。ファミレスの白ワインはばかみたいに安かった。ばかだから無遠慮に下品に低俗に、体中をかけずり回った。しなびたホウレン草のソテーは胃の中でゴミクズ同然のにおいを放った。冷房の真下の席だったので強い冷気が直接当たった。熱がうばわれていった。肩から指先から、わたしの熱がうばわれていった。アルコールで感覚が麻痺して何も感じなかった。右どなりに座っている30歳くらいの男は祈るように合わせた手の上に顎を載せ、何も注文せずに入口のほうをじっと見ていた。わたしは特筆すべきことが無い日々とこの店のただ中で、必死に頼るべき悲しみをひねり出そうとした。今日こそはあの男を愛せたらよいと思った。愛せたらよかったのに、とも思った。


 二枚目は先日友人と行ったとしまえん遊園地のエルドラドという、1903年にドイツ人が作ったらしいメリーゴーランドの写真。としまえんは幼稚園児かヤンキー崩れしか居なかった。真ん中に太い柱が立っていて、そこから数十個のブランコがぶら下がっており、10メートルくらいの高さまで上がって回転する、みたいなアトラクションがあって、われわれ以外みな幼稚園児だった。作り物めいた真っ青な空に少しだけ近いところで、ちいさな子供たちがみな一様ににこにこしながらブランコに乗って高いところをくるくる回っている、その様はこれまで見た何よりも平和で幸福ですべてが調和していて、ライ麦畑のキャッチャーになったような気分だった。
 あとディズニーランドは一つのアトラクションに複数名の従業員がついて様々の役割を分担しているのに対し、としまえんは人件費削減のためか基本的にワンマン運転で、チケットの確認からアナウンス、出口への案内など何から何まで一人でやっている。そのためかアトラクションの私有化が進んでいて、BGMがYUKIやSuperfly、アナと雪の女王のやつ(これはテーマパーク的だと思ったが、一応ライバル?のディズニーのだけどいいのか?と思った)、サイケデリック・ロック、ビヨンビヨンという音が流れ続ける陰鬱なヒップホップ、都会の夕焼けみたいな小洒落たヒップホップなどアトラクションの雰囲気を完全に無視したものばかりだったのが気になった。

2014年8月18日





2014年8月10日



 いま使っているiPodが馬鹿になって、ちょうど一年経とうとしているところなのにあまりにも短命、と心臓をばくばくいわしながら解決策を調べたら、故障時の基礎中の基礎のようなポジシオンであろうリセット機能というのを知り、やったらすぐ直った。本当によかった。と思ったのが一昨昨日。それで今日、本来ならば友人2名とプールに、このわたしがプールに行こうと、予定していたのに台風、台風が来て延期になってやさぐれて一日インターネットをしたり「耳そぎ饅頭」を読んでいたりした。ふと、このリセット機能を使えば前のiPodももしかしたら復活するかも、と思ってとりあえず充電しようとPCに繋いだ。そうしたらしばらく、充電しているから待ってくれという画面が表示されたのち、現行のiTunesと同期しようとしたので慌てて接続を解除した。そうしたらなんか、よく分からないけど直った。
 初めてiPodを買ったのは中学3年生の終わり頃か高校1年生の始めの頃で、そのときはピンク色のiPod nanoだった。でもすぐに容量が不足し仕方なく1年後の誕生日だか正月だかにclassicを購入。これが去年の春頃までずっと使っていたもので、今回復活したiPodである。つまりこの先代のiPodはわたしが最も多感であった(仮)約6年の音楽の趣味が凝縮されており、東は古いアダルトゲームのサウンドトラックから西はアイヌ民謡までを詰め込んだ記念碑的作品だったのである。直ってめちゃくちゃ興奮している。
 ついでに言うと昔親しくしていた男から貰ったというか「聴いて」と言われて渋々入れた楽曲が結構あり、わたしは同じ曲を繰り返し聴きまくるきらいがあるので(セルジュ・ゲンズブールの「唇からよだれ」という曲だけ約半年で400回くらい再生している)聴かずじまいだったものも多分にあった。今回改めて先代のラインナップを眺めてみたところ、今のiPodにしてから知った人間も居て、うち一人がNujabesで、いま聴いています。この名前を知ったきっかけも、また別の親しくしていた男によります。こういうの気色悪いと思います。自分の趣味が男の趣味に影響されるのは格好悪くて嫌なのだけど、みんなしてイヤホンを女の耳に挿入したがりやがって。男というのはみな音楽を好きなのか、わたしが音楽を好きなのか、それとも音楽を好きな男を好きなのか、といったとりとめのない有象無象を、台風の晩に考えている。何一つ感傷を挟むこと無く、じっとりと汗をかきながら。

2014年8月1日

 夏休みという響きは何故かくも人々をうきうきたらしめるのか。昨日は百貨店で化粧品を購入し映画館へ行ってチケットを購入、喫茶店で珈琲とババロアのセットを購入し、ほげーと言いながら読書しつつ男の登場を待った。二階は涼しかった。やがて男がやって来てしばらく二人で、ほげーと言って、映画館に移動しホドロフスキー翁の最新作「リアリティのダンス」を観た。現ホドロフスキーが、海に身を投げんとする幼少時代の自分を抱きしめながら「苦しみに感謝しなさい。それによって今のわたしになれる」と言うところがあって、先に観ていた友人が「いやー陳腐だけど、魂が救われるって感じの感じよ」と評していた意味が分かった。
 前にも書いたけれどルソーが「告白」という本で、告白の材料となる問題はそれが切実であればあるほど、個人的であらばあるほど、惨めで滑稽なものなのだ、つらい、と言っていたけれどまさにこの映画がそうであった。ホドロフスキーも彼の両親も愛その他の切実かつ個人的な問題に切迫していて、それゆえ笑えるシーンが結構あった。ていうかふつうに笑った。「グランド・ブダペスト・ホテル」は一瞬も笑わなかったけど、これは笑った。笑ったあとに、もしくは笑いながら「魂が救われるって感じ」がやって来て心臓がギュンとなった。それと過去にめっちゃしんどかった頃のことを忘れず懐かしまず抱きしめることが出来るというのは、すごいなと思いました。なのでわたしも80歳まで生きられたらそういった気持ち・気分でいたいと思いました。

 いまは友達がくれたCoconut Recordsの歌を聴いています。最近は山本精一の「ファルセット」というCDを買いました。

2014年7月23日

 なんでか今日なにも無いと思って目覚ましをセットせずに寝た。11時に起きた。よく考えれば2限(10:45から)テストだった。はあ。責任の発生しない人生は最高。先日そういえば気管支炎になった。4月だかなんだかに胃炎になったし、その前もいろいろの炎を、なんて部屋で汗をだらだら流しながらパソコンに向かっていたら蝉が鳴いている。油蝉だ。そうそれで、去年の今頃、梅雨辺りからいろんな病気を、主に炎をこじらせるようになった。病院に行く前にインターネットで症状から病名を調べると大抵「がん」と出てくる。今回なら「咽頭がん」。もう駄目なのか、どう考えてももっと長生きして楽しいこといっぱいしたいし花火とか盆踊りとか、浴衣着て、行きたいのになあ。と祈るような気持ちで病院に行き、なんらかの炎であることを医師に告げられ安堵の溜息を帰路ひたすら漏らしながら歩く、といった日々。
 今日このあと何時からか知らないけど友達と遊ぶ予定が入っていて、でも面倒になってきたなあ。このまま家でじっとり汗をかいて居たい。この部屋がこんなにも暑いのは、クーラーのリモコンを紛失したから。暑い。いますごく暇で、といってもレポートをせんならんので暇では無いんだけれど、なんとなく町田康のオフィシアルサイトの日記を遡っていたら、「PUNK」と書いたティーシャツを着てバンドの人たちとの集合写真に臨む町田康が居た。ふざけたジジイ。と思った。ダンテとかドストーエフスキイとかそういった大理石を担ぐ作業みたいな本ばかり読んでいたから、あ~ラノベ読みたい~、と思って町田康の本を昨日一昨日は読みました。「俺、南進して」「くっすん大黒」「パンク侍、斬られて候」「真実真正日記」「夫婦茶碗」の順で読みました。「俺、南進して」と「パンク侍、~」を合体させてよりコクを出したのが「告白」なんだなあと思った。いちばん良かったのは「夫婦茶碗」。思い掛けず滑稽でいじらしく切ないラヴ・ストーリーだった。
 この間大学の前のカフェだかレストランだか分からないけどそういった類の飲食店の前を通ったら、なんていうジャンルの音楽なのか分からないけどアコーディオンを使うような類のバンドが演奏をしているのが、開け放たれたドアから聴こえた。演奏がちょうど終わるところで、客は各々丸テーブルに就いて安楽な状態で満足げに拍手を送っていた。いいなあと思った。

2014年7月22日

 ゼミのレポートを書こうと思ったのにただじっとりと汗をかいて読書してアイスキャンデーを2つ食べて一日が終わった。もうすぐお誕生日の友達が居る。その人がわたしの書いたおもしろ小噺をプレゼントに欲しいと言うんで今日すこし書いてみたんだけど、無職の中年男が死んで青りんごになる話を3000字くらい書いて、お誕生日に人が死ぬ話はさすがのわたしでも良心が咎めるな、と思ってよした。それでその後は上に書いたような虚無の時間を過ごした。

 この間諸用で三年ぶりくらいに高円寺に行った。やはり気持ち悪い街だと思った。とは言えわたしも中学生の頃はガロの漫画にはまり、戸川純とかアーントサリーとかあぶらだことかマチゾーとかのサブカルに心酔(仮)して、ビレッジバンガードは汚くて嫌いだったけどそれなりに中央線文化に憧れを抱き、高校一年生で初めてアルバイトしたのは水道橋の飲食店だった。しかしすぐに中央線の駅は気持ち悪いと気付いた。なにが気持ち悪いのかはよく分からなかった。大学よねんせいになったいまうっすら分かるのは(うっすらなのはこれらについて特に考えたいと思わないから)、文化というのは一人では生れず、人と人との関わり合いの中で生まれるわけである。で自分はそういった文化的なグループやチームは嫌いなので、何故なら好きではない人の自己愛に付き合うことが出来ないので、中央線は、気持ち悪いんだよなあ。と思った。

2014年7月16日

 いろいろあって町田康の著作をいくつか読んでいる。「俺、南進して」を読み終えていま「パンク侍、斬られて候」読んでいる。退屈な内容でも「どつき回す」「ほたえる」「こます」の三語が使われた瞬間心にグッとこみ上げてくるものがあるので、いいご身分だと思う。わたしは東京が大好きで他の土地にほぼ興味が無いのだが、方言は心底羨ましく思う。方言に対する憧れが、文体への拘泥とか外国語(ざっくばらん)を習いたがる性向、共通語である英語に対する関心の低さと関係していると踏んでいます。どうでもいいけど。インターネットで方言を使うと、特に関西弁を使うと差別と弾圧の対象になりがちだけど、一気に人間味が出て面白いので嫌いじゃないです。
 町田康の本にはよく落語の話が出てくる。だから落語に明るければより楽しめるのだろうと思う。しかしわたしの聴覚処理能力には少々問題があって、言葉と意味がきちんきちんと連絡し合わず、シニフィアンとシニフィエの彼岸に飛ばされることがしばしばある。そのため音声言語命の落語を楽しむのは難儀なのである。事実、先日授業で桂枝雀という人の「時うどん」という落語を観たのだけれど、関西弁で滅茶苦茶早口なのも加わって一言も聞き取ることが出来なかった。でもあれは結構、落語に親しんでいない人が聴いたら分からないような気がする。どうなんだろう。それでわたしの好きな男が落語が好きだと言うんで「こないだ授業で桂枝雀(本当は「桂…雀に枝?みたいな名前」と言った)ていう人の落語観たよ」と言ったら、「へえ。枝雀が。彼は笑いを究め過ぎて鬱病になって自殺したんだよ」ということを教えてくれた。非常に聡明な人だったらしく英語で落語をやったりもしていたとか。聴覚なぁ。障がいと向き合って生きていこう。


 見知らぬオッサンと交わした会話。

オッサン「ねえ」
わたし「え?」(イヤフォンつけていた)
オ「今までの人生でなににいちばん熱中した?」
わ「え?…本?」
オ「最初にはまった本とか小説家とか覚えてる?」
わ「うーん。芥川龍之介」
オ「ほお。なぜ」
わ「善悪について考えさせられました」
オ「なにが悪だと思う?」
わ「相対的なものだと考えているので定義出来ません。でも少なくとも、好きな人を悲しませたり泣かせるものは悪です」
オ「もし、好きな人になんの感情も無かったら、そこに善悪は無いの?」
わ「好きな人を泣かせるものだけ、とは言ってないんですが」
オ「わかりました」
云々。

 しつこいオッサンは悪。

2014年7月8日




 土曜日に初めて精進料理を食べた。今までのおいしさには大体エクスクラメーションマークが付いていたが、精進料理のおいしさは気分を鎮静化させるものだった。亭主(でいいのか)の方が直々にお話して下さって、「年を取ると懐かしい味を求めてしまう」と仰っていたが、わたしにはどれも新しい味と感じられるものばかりだった。鳥そぼろに似ている山菜とか、甘くてブヨブヨした野菜とかあった。そういうのは結構興奮した。
 ご飯がおかわり自由だったので2杯もおかわりしてしまった。精進の道にあるまじき行為だと恥じた。
 帰りにお寺で紫陽花を観た。霧雨の中の紫陽花は綺麗だった。あとあんみつ食べた。あんみつは毎日食べたい食べ物の一つ。

 日曜日は中目黒を散歩した。ライフの近くにある有名なポップコーン屋さんでポップコーンを買うという精進の道にあるまじき行為をした。キャラメルの甘さが均一でおいしかった。